紅葉真っ盛りの京都に行ってみた⑤最後に智積院へ。圧巻の国宝と庭園をゆったりと
紅葉シーズンの11月22日から2泊3日で京都に行ってきたので、混雑度合いやおすすめスポットを紹介している今回の記事(普段は読書記録だよ!)、最終回は穴場と言ったら失礼かもしれませんが超穴場だった智積院のお話です。
(この旅で回った場所を地図にプロットしたのでご参考まで٩( ᐛ )و)
ちなみに前回の記事はこちら。
最後のランチと荷物預け
翌日、11時チェックインまで泥のように眠り、頭痛と内臓ズタボロ感を抱えながら、先に昼食をとることに。オーバカナルって東京にもあると思うけど、それの四条烏丸店でした。日替わりのチキンが美味しかった。(写真を撮る気力もない)
しばし休息をした後、京都駅へ。エキナカの食事処が軒並み超満員だったので、市内でご飯を食べて正解だったな~。ロッカーも空いてい無さそうだったので、手荷物の一時預かりをお願いしに京都駅をさまよいました。
※一時預かり場所すごい分かりにくいのだけど、京都駅のバスロータリーから駅構内に入るところ(JR在来線の改札がある、天井がめちゃ高い場所)の地下1階にありますよ。
京都の〆は智積院へ
荷物を預け身軽になったところで、昨夜(いや今朝か)紹介された智積院に行くことに。バー「おもい川」で一緒になった方が、智積院の関係者さんなのでした。
三十三間堂や清水寺に行く方面のバスに乗り込みます。中々に混雑していましたが、臨時バスもガンガン走っているようなので、さほど待たずにバスに乗車。道もあまり混んでいなかったのでさほど時間もかからず(10分ちょっとくらいかな)に最寄りのバス停に到着。
本当に下調べもせずに行ったので(智積院って‥何か修学旅行の時にちょっと調べたような‥)という程度の印象だったのが、到着すると大層立派な敷地だったのでかなり驚きました。舐めてました(白状)
モミジが見頃で穴場で綺麗で
入り口で朱印帳を預けると、本堂へ進む道の右側にズラッと真っ赤に色づいたモミジが!昨夜永観堂であれだけ(満員電車レベルで)揉まれながら眺めたモミジが、なんとまあ人もパラパラと居るレベルで、普通に鑑賞できようとは!ありがてえ…と思いながら、全然本堂に近づけないままモミジの写真撮影をひとしきり続ける。
ご参拝と思わぬ名解説
まあそろそろお参りしないとね、ということで本堂(金堂)へ。写真撮り忘れちゃったのですが、大層立派な本堂でした。人はまばらだった。
参拝も一応済んだということで、拝観受付所へ。ここで拝観料を払うと、国宝が納められている宝物館と、有名なお庭が見られるらしい。
昨夜お会いした方のお名前を出すかどうか悩んでいたところ、なんとご本人から(今日は仕事休みだと聞いていたのに!)顔出しますというLINEが飛んできて、素面でお会いするのも恥ずかしいな…と思い、そのまま拝観受付(500円)をして、国宝の屏風絵を眺めていたら、なんとマァご本人が登場!素面で会うのすごい恥ずかしかった。笑
たまたまちょっと酒を酌み交わしただけの相手に、わざわざ顔を出してくれてとても嬉しいなぁと思っていたら、挨拶だけではなくて、境内を案内してくれると申し出てくれて、またねえこの説明が素晴らしく面白くて!
わたしたち向けに説明し始めたのだけど、気が付けば堂内に居た他のお客さんも巻き込み笑いを取る語り口に感心しきりでした。
以下、せっかくご案内してくれたことを忘れないように、自分向けの備忘です。智積院を拝観した方には通じるかもね。これから拝観する人は、眺めておいてもらったら良い予習になるかもしれないですね。
智積院のHPはかなり力が入っていて、予習にぴったりなので、良かったら併せてどうぞ☺
http://www.chisan.or.jp/
- 智積院は以前秀吉が3歳で亡くなった息子の菩提を弔うための寺で名前を祥雲禅寺(しょううんぜんじ)と言った。智積院そのものは元々僧侶が学ぶための学校みたいなもので、元々は和歌山にあったのだけどそれが強大な力を持ち、僧兵が6000人?くらいになってしまって、その勢力を警戒した秀吉に焼き討ちされ、有力者はいくつかの寺に分かれて逃れた。一人は奈良の長谷寺を開き、一人は京都にいた。時がたち、秀吉から家康へ勢力が移った後、家康と親交のあった逃れた僧侶(名前を玄宥(げんゆう)という)は家康の勧めもあり、秀吉ゆかりのお寺であったこのお寺を譲り受け、智積院と改めた。
- 言ってみれば仇の寺を拝借した訳だけれど、僧侶たちは譲り受けたお寺が紡いできた文化を大切にしたそうで、国宝となった屏風絵も、幾度も発生した火災から当時の僧侶たちが命がけで守りぬき、ここまで残ってきたもの。
- 長谷川等伯の描いた屏風絵が多数収蔵されているが、その中の一つ「松に黄蜀葵(とろろあおい)図」(※宝物庫入って正面の絵)は、秀吉と家康に関するエピソードが残されている。松は秀吉の象徴、葵は家康の象徴とも言われているが、秀吉の息子が幼くして死んだ時、秀吉は既に時代の潮目が変わり、勢力が秀吉から家康へ移りつつあることを自覚していた。そこで、絵師に”松が葵を押しつぶしているように”描かせたという逸話がある。これも、智積院となったとき、玄宥さんと親交のあった家康が智積院を訪れてこの屏風絵を見たそうだが、激高するどころか、”まるで葵が松を取り囲み押し込めているかのよう”と笑い飛ばし、屏風絵をそのままにしたという逸話も残されているとか。ホトトギスになぞらえ戦国武将の性質を表す歌があるけれど、屏風絵からも同じような、秀吉と家康の性質が表れているようにも思われる。
- 国宝となった屏風絵を描いた長谷川等伯は、絵師として大成したタイミングは晩年であり、それまで大型案件の受注も無くクサクサした日々を過ごしていたとか。そこである日、お寺に忍び込み勝手に屏風絵を描いたところ、それが評価され、智積院収蔵の屏風絵にもつながったとか。ちなみに、等伯が忍び込み描いたと言われる屏風絵は京都の大徳寺に残されているとのこと。またこの絵は火災等での消失が激しく、よく見ると絵がつながっていない部分があるが、これは火災が発生した際、屏風から絵を切り離して持ち出したが、その過程で失われた部分があるため。持ち帰っちゃう不届き者も居たのだとか。
- 入り口横の屏風絵は等伯が息子の久蔵と一緒に描いた親子合作のものと言われている。とある歌舞伎役者さん(名前を失念してしまった笑)はこの絵を見たときに涙を流したとか。
- 入り口から二番目の屏風絵(秋草図屏風)、少し前にビールの宣伝で福山雅治が出演したときに背景がとして起用されたもの(実際はCGなのでこの屏風絵は使っていないそうだけど)。高さを比較すると、先ほどの等伯がお寺に忍び込んじゃったエピソードの屏風絵と比べると、高さが大きく異なることが分かる。それだけ逸失した部分が大きかったということ。
- そこから隣の屏風絵の目を転じると、あれ?でかいね?そうです、こちらの屏風絵は、何がどうなったかバラバラになった後に頑張ってつなぎ合わせた結果、元の姿とだいぶかけ離れたものになってしまったが、そのまま重要文化財に認定されたという変わり者。部屋の中央の展示物の裏に、元の絵の想像図とどこをどう復元したら珍妙な絵になっちゃったかというパネルが貼ってあるので、見比べると面白いです。
- 最後、宝物庫正面左側の屏風絵は、等伯の息子久蔵の作品と言われていて、息子は26歳で死んでしまうのだけど、父親以上の腕前ともいわれていたのだとか。桜を描いたものだけど、桜の花びらに胡粉が使われていて、画材が重ねられて(油絵みたいだな〜と思った)立体的に見えるようになっているとのこと。そして、明かりを消してみると、桜の花びらの白い部分がまるで浮き上がるように見えるのですって。今は文化財をいつも同じ明るさで眺めているけれど、これが描かれた当時はそんな風にはなっていなかったはずで、月明かりや燭台の明かりで、夜桜と見立ててこの絵を眺めることもあったのだろうと思える。そんな時代のよすがが味わえる作品なのですって。
- 場所を庭園に移し、庭園の説明もしてくださる。中国の廬山を模した山で、これも智積院の前身である祥雲禅寺時代から続くもの。築山には通常人は入れないのだけど、かつて秀吉がこの築山を散策したのだとか。
- 中国の川を模しているため、水は敢えて濁らせている。秘密は粘土質の土にあって、その土が鯉が泳ぐことで舞い、濁りを生み出している。
- この手の庭には珍しく、建物の外からいきなり川になっていて軒下まで水が入ってきている(普通は軒先から少し土になっていて、そこから水が始まるのがよくあるパターン)。覗き込んでもいいけどスマホ落とすと大変なので気を付けること。
- 昔から築山の形や植え込み、石の配置など変わっていないそうなのだけど、当時の庭の様子を書いた絵があって、それと比較するとやっぱりちょっと配置が変わってきているねということで、最近当時の再現に力を入れているのだとか。でも、この庭も文化財なので、少しでも手を入れようとすると官庁の許可が必要らしく、あれこれやり取りをしないといけないらしい。
- 庭を眺める建物内には、先ほど見た屏風絵のレプリカが貼られていて、お堂に移すまではこのような形で屏風絵があったとのこと。レプリカを見るとハチャメチャに金色だけど、これも復元したものなので、国宝の屏風絵たちも当時は金きらりんだったらしい。
- 屏風絵がある壁の枠?柱?みたいなところにある金具(釘とかを打つ位置にある)に入っている文様が、菊の御紋と葵の紋が共存しているのが珍しい(由来も聞いたけど忘れちゃった)
- 総門は閉じているのだけど、4年に一度、智積院の最も暗いの高いお坊さんの総選挙みたいなものがあって、そこで選ばれたお坊さんが初めてお寺に来る、着任するときにだけ使われるらしい。総門から大通がつながっていて(碁盤の目状だから、遥か遠くまで道が続いていて壮観だった)、この構造になっているのは京都で八坂神社と智積院だけ。
- 襖絵はいつか文化財に指定されるかもしれないレベルの作品。田渕俊夫さんの描いた「四季墨絵」。とても希少な炭を使っている。炭は数百年前のものとか、すごく貴重なものなのに磨れば無くなってしまう、使い切りのものだから、貴重なものはとても高いらしい。
- 畳や垂れ幕は、先ほどのトップofトップお坊さんが着任するときに一斉に取り換えられる。今年新しい人に変わったばかりだから、真新しくて清々しかった。
- 階段を上がり大師堂(弘法大師を拝するところ)と中興の祖である覚鑁(かくえい)さんを拝する密厳堂へ。毎年12月下旬に、この覚鑁さんが亡くなられた日に開く法要があって、提灯を置く台はその法要に向けて設けられたもの。その法要では、夕方から明け方までぶっ通しでお経を読み続ける行もあって、とても大変らしい。
- ここには神社もいくつかあって、土地の守り神としてお祀りしている(本地垂迹の話もされていた)。
- 最後に明王殿で夕方のお勤めも見学させていただいた。修行僧20名くらいがお経を読むその迫力よ…!15分くらいだったのかなあ。音が何重にもなって押し寄せてくるような迫力。聞いているうちにトリップしてしまいそうな…音が重なる中で、女性のような高い声も聞こえてきて不思議だなあと思っていたら、後で同行者に聞くと女性が居たのではとのこと。すごいなあ。
ちなみに、今回聞いたお話はメモも取らなかったのでうろ覚えの部分がいくつもあったのだけど、こちらのサイトに同じような話が載っていたので、こちらも予習にぴったりだと思います。
http://www.kyotodeasobo.com/art/houmotsukan/chisyakuin-temple/
帰路と旅のまとめ
智積院からはバスに乗って再び京都駅へ舞い戻ります。途中までは道も混んでおらずスイスイでしたが、京都駅周辺になると、途端に全く車が動かなくなるほどの混雑で、新幹線の時間に間に合うか少しヒヤヒヤした。
荷物預かりから荷物を回収しつつ、新幹線切符の発券へ。新幹線中央口(一番分かりやすいところ。改札出たら近鉄の改札があるところね)に向かったら、マァ大混雑!本当に発券する間に新幹線が発車しちゃうんじゃないかとちょっと焦りました。土産も買えねぇ。こんなことにならないよう、駅には時間に余裕を持って到着しましょうね。あるいは、中央口じゃない入り口だったらもう少し空いていたのかも…?🤔
結局、発車5分前くらいに何とか発券することが出来て(ギリギリだわ)、寂しさを抱えながら帰路に着きました。
今回すごく貴重な体験が出来て、本当に楽しく充実した、満足感マックスな旅行だったなあ。旅において大切にしたいことは次の二つだなと思った。
- 出会いを大切にする。(ただし、みんながみんな良い人とは限らないので、それは注意する)
- 拝観にあたり予習は超重要。あるいは現地のガイドさんにお願いして話を聞いた方が数倍充実した旅になる。(そうでないと、ただ記録写真を撮るだけになって、具体的な思い出や経験が蓄積していかない)
5回に渡り、自分の備忘がてら書き綴った旅行記ですが、ご参考になりましたら幸いです。最後までお読みいただきありがとうございました!