「クララとお日さま」の全力考察・深淵には何が見えるか?

ノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロ氏の受賞後第1作ということで話題になった「クララとお日さま」をようやく読みました。

ところでノーベル文学賞って、特定の作品に対して贈られるものでは無いのですね。

ノーベル文学賞はその作家の作品、活動の全体に対して与えられるものであって、一つの作品に対して与えられるものではない。ただし、特に代表的な作品や選考の上で評価された重要な作品などの名前が賞記に記されることもある。原則として選考の時点で生存している作家が対象であり、追贈は行わない。資格を持っている各地のペン・クラブや大学、文学者などから候補が推薦され[4]、これをスウェーデン学士院が選考する[5]

ウィキペディア

ちなみにカズオ・イシグロ氏の受賞理由は、「世界とつながっているという幻想的な感覚にひそむ深淵」だそうですよ。

スウェーデン・アカデミーはイシグロ氏が、「世界とつながっているという幻想的な感覚にひそむ深淵(the abyss beneath our illusory sense of connection with the world)」をあらわにしたことを受賞理由に挙げた。

カズオ・イシグロ氏がノーベル文学賞の栄誉(東洋経済オンライン)

世界とつながっているという幻想的な感覚にひそむ深淵……?

🤔

ただ、本作を読むとその深淵が感覚的に理解できる気がしました。それについては後ほど、何とか言語化を試みたいと思います。

ノーベル文学賞……なんか難しそう…と思われる方も多いと思いますが、特に本作はおとぎ話のような平易な文章で綴られて行くので、とても読みやすくおすすめです。

ハルキムラカミはわたしには難しいのですが、カズオイシグロは大丈夫。恐れず読んでみましょう。

最低限あらすじとざっくり感想

発売時に話題になりましたが、本作のユニークなところはまず「語り手が人工知能であること」でしょうね。

タイトルにもなっている「クララ」は、作品中で”AF”と呼ばれている人工知能を持ったロボットです。しかもお日さまに対する強い信仰心を持っている。とってもユニークですね。

そんな信仰するAI・クララと人間の少女の交流が物語の骨格になっています。

わたしはSFはさほど読まないのですが、本作と同じような試み(ロボットを語り手にする)は、これまで何度も行われてきたと思います。

その意味で本作は全く目新しいということでは無いはずですが、ノーベル文学賞という超権威ある賞を獲った作家の受賞後第1作目の主人公が”AI”であること。すなわちこれまでSFという狭いジャンルの中で行われてきた試みが、世間の注目が必ず集まる文学作品の中で行われたこと。

わたしには、それだけ世の中にAIが浸透してきたことの現れだと思えたのです。

社会構造の変化を敏感に捉え、文学のテーマとして「AIと人間の共生」を取り上げる著者のセンスが光るというか。機は熟した!感がすごいなと思いました。

本作に対し、わたしは五段階評価で星四つをつけさせていただきましたが、読み終えた瞬間の第一印象は「不思議…不思議な作品だ…」でした。ちょっと受け止めきれなかったというか。分かるけど、よく分からんぞ…なんかモヤモヤするぞ…と思ったのです。

そこでいくつかのレビューを読み、また数日経つと「もしや本作、奥行きがすごいのでは…?」と思えてきました。どうやら後からクるタイプの作品のようです。

ちなみに読んだレビューはこちら。どちらも超ネタバレなので未読の方は気をつけて!
カズオ・イシグロの『クララとお日さま』に見るAIの異質さと、浮き彫りになる“メッセージ”(WIRED)
カズオ・イシグロ最新作『クララとお日さま』が問うヒューマニティ。(VOGUE)

ネタバレを避けた感想を述べると、読み心地が独特なのが印象的です。
語り手がAIであることから本作はモロにSFなわけですが、そこにスパイスとしてのディストピアが散りばめられ、それでも全体はおとぎ話のように優しく温かく綴られていく……。

そう、例えるなら創作和菓子みたいな読み心地なのです。(例え下手か?)

出色なのは、SFやディストピア色はあくまで控えめなところでしょう。全体が優しく進行していく中に時折不穏さが表出してくるので「ヒッ……?!」となるというか。チラリズムが上手というか。

なにせ、語り手のクララが「AF」なる存在であることは早々に明かされるものの、ではAFとは何なのか?は作品を通しても明確に語られることは無いのです。
おそらく、アーティフィシャル・フレンド、人工親友の略だと思うのですが。

進撃の巨人で言うと(なぜ進撃に喩える…?)、このシーンが近いです。

この「アエッ〜??」ってなる感じね

ネタバレに配慮して一部モザイクかけておきましたが、進撃読んだ方ならわたしの言わんとすることが伝わるはず…☺(ほんと?)

大事なことがカメラの端っこで起こってるのですが?!的なチラリズムに魅了され、グイグイ読み進めることになるのです。
思うに、語ることと語らないことのさじ加減がとっても絶妙なのだな。

ということでこの先では、ネタバレ全開で「語られたことと語られなかったこと」を考察しつつ、本作のメッセージについて考えてみようと思います。

未読の方はこの先は絶対読まないでくださいね、気になるならぜひ本作をお読みください〜!

考察にトライ:語られたこと・語られなかったこと

さて、この先ご紹介するのは、本編のとっても重要な描写を含む本書の引用です。

あえて引用したのは、決して物語のネタばらしをしたいからではなく、実際の文章を元に本書のテーマを探りたいと考えたからです。そして、「何が語られなかったのか」を読んでいただいている皆さんと一緒に考えたいからです。

なので、引用はできるだけ最小限に留まるよう、前略・中略・後略がふんだんに盛り込まれています。おかげで前後の流れが分かりにくいとは思いますが、目的が上記の通りですのでご了承いただきますように!

※ちなみにこれを書くにあたり、上でご紹介した二つのレビュー(WIREDとVOGUE)をとっても参考にしています。

語られたことを基に考えてみると……

①クララは人間と世界の見え方が全く異なる

序盤に以下の記載があったにも関わらず、わたしはそれをすっかり忘れておりまして、ホームパーティーでいきなりクララの視界が大混乱するところでめちゃくちゃ困惑しました。わたしだけかな。

お店全体が目の前にあり、奥にあるガラスのテーブルまでずっと見通せます。でも、その空間がいま十個のボックスに分割されてしまっていて、わたしは目前の光景を一つのまとまった画像として見られなくなっていました。(中略)そこにあるのは店長さんの顎の一部と口の大部分で、そこからわたしが感じたのは怒りと失望でした。店長さんが完全に向きを変え、わたしたちにに近づいてくるにつれ、お店全体がまた一つの画像に戻りました。

P41〜42より

ボックスって何!?人の顔のパーツが巨大になるって何?!怖い!と戸惑ったものです。
クララはあくまでロボットですから、クララが認識する世界は恐らく”ピクセルの集合体”なのですね。

まだインターネット回線がこれほど発達していなかった頃、重たい画像はモザイクがかったところから徐々に鮮明になっていくことがありましたが、それと同じような何らかの情報処理がクララの中で行われており、時折その処理がスムーズに行かないことがあるのでしょう。

終盤、リック+リックの母親(ヘレン)+母親の元恋人(バンス)の濃密トークを浴びた後のクララの世界は大いに乱れました。本作には「人工知能に心はあるのか?」というテーマも含んでいるように思われますが、わたしには、クララの心(と言えるもの)の揺れ動きが、画像処理の乱れとして表現されているように思いました。

②向上処置とそこから透ける超格差社会

「理屈のうえではな。アトラス・ブルッキングズはそう宣伝してる。でもな、二パーセント未満だ。それだけさ。向上処置を受けていない生徒の入学率は二パーセント未満」
「でも、向上処置を受けてないでここに入ろうとする人は大勢いるし、リックはそんな人たちの誰より頭がいいんだから、なぜ狙わないの?お母さんのせいでしょ?(後略)」

P186〜187

向上処置、気になるキーワードでしたね。AFと同様に作中で明確な説明が無いので推察の域を出ないのですが、「どこかの年齢で、処置するかどうかを親が決める」「処置すると性格が乱暴になることがある」「処置した子どもは、処置済の子どもたち同士でコミュニティを形成する」ことが物語の端々から読み取れます。

そしてしんどいのは、「処置を行うと病気になることがある」こと。ジョジーの姉であるサリーは、恐らくそれが原因で亡くなっていることが仄めかされます。それでもジョジーの母(クリシー)は、ジョジーに向上処置を受けさせ、そしてジョジーは病気になってしまいます。

「(前略)うちのママはたしかにスピードを出しすぎるけど、少なくとも勇気があるわ。サリーでうまくいかなかったのに、勇気を出してわたしに同じ決定をしてくれた。とっても勇気がいることよ。そう思わない?」

P187

あまりにもリスクが高すぎるように思えますが、それに見合うリターンがあるはずです。恐らく、子どもの将来(進学先・就職先など)が処置の有無で決定的に変わってしまうのでしょう。

そして、リックの家が荒れ果てていることから分かるように、向上処置にはお金がかかるようです。リックが向上処置を受けなかった理由は金銭面も大きいはずです。

そうすると、処置を受けた(受けられる)家庭と、受けない(受けられない)家庭の格差は、世代を経るごとにどんどん広がっていくことになるでしょうね。

ジョジーとリック、そしてその母親同士の仲が良いのは救いでしたが、ジョジーたちが”向上処置第一世代”だとすると、これから処置が一般的になっていくにつれて、処置の有無で友情の在り処も変わってしまいそうですよね。

作中で向上処置を受けていない子どもはリックだけなので何とも言えませんが、リックはAFを持っていません。このことから、「AFは処置を受けた子どもたちのためのもの」=処置によって情緒が怪しくなる子どものための情操教育の一環と言えるかもしれません。

物語の切ない結末において、子どもたちは徐々にAFから卒業していきます。思春期を終えた子どもたちはメンタルが安定していき、もはやAFが必要なくなるということなのでしょうね。

その結果、あんなに大事にしていたはずの”親友”と子どもたちはとてもあっさり別れてしまいます。ジョジーはクララのことを最後まで大事に思っていたようですが、それでもクララを手元に残そうとはしませんでした。「次に帰ってくる時にはもういないのね」と他人事のように捉え、颯爽とクララに背を向けて歩んで行きます。

もしかすると、この薄情さも向上処置に依るものなのかもしれません。何か大事な、情緒的なものを失う代わりに、優れた能力を手に入れる代物なのかも。ちょっと嫌だなぁ向上処置。
もしそうであれば、処置を受けなかったリックが今度はクララの親友になる…という展開があっても良いのかもしれませんが、ちょっと御都合主義過ぎますかね。

役目を終えたAFは(少なくともクララは)とても満足した様子で廃材置き場での暮らしを送ります。この物語は、役目を終えたクララの回想だったことが分かりました。
初めからそのように、ひと時だけの親友になるようにプログラムされたロボット、それがAFなのですね。子どもに寄り添うために、AFたちの精神も幼く無垢に設定されているのでしょう。

読み終えてしばらく経ってから初めて、↑こんなような↑頭の整理ができて、そうすると物語が、クララの無垢さが、どんどん自分の中に染み渡ってくるようで切なかったです。創作和菓子の後味、めちゃくちゃほろ苦いじゃん。

③クララが辿り着いた結論と、一番不穏なメッセージ

「店長さん、わたしは全力でジョジーを学習しました。求められれば、全力で継続していたと思います。でも、結果が満足いくものになっただろうかと問われると……。それは、完璧な再現などできないということより、どんなにがんばって手を伸ばしても、つねにその先に何かが残されているだろうと思うからです。母親にリックにメラニアさんに父親……あの人々の心にあるジョジーへの思いのすべてには、きっと手が届かなかったでしょう。いまはそう確信しています、店長さん」
「そう。でも、クララ、実際には最高の結果になったのよね? よかったわ」
「カパルディさんは、継続できないような特別なものはジョジーの中にないと考えていました。探しに探したが、そういうものは見つからなかったーーそう母親に言いました。でも、カパルディさんは探す場所を間違ったのだと思います。特別な何かはあります。ただ、それはジョジーの中ではなく、ジョジーを愛する人々の中にありました。だから、カパルディさんの思うようにはならず、わたしの成功もなかっただろうと思います。わたしは決定を誤らずに幸いでした」

P431

廃材置き場で店長さんとクララが対話するシーン、とても印象的でしたよね。

”その人ならでは”というものは他者の中にこそ存在する、だから人工知能がその代替をすることはできない、という結論は非常に示唆的でした。(示唆的と言えばいい感じに収まると思っている)

そんな学びを得たクララが、持ち主に捨てられたにも関わらず役目を果たしたことの満足感だけを抱えている様子が切なかったです。

廃材置き場で働く人たちはクララを他のAFのところに連れて行く提案をしており、クララへの配慮を感じますがそれ以上のことは何もしてくれません。店長さんもクララとの再会を喜んではいたものの、クララを廃材置き場から連れ出すことは無く、最後に振り返り別れを惜しむこともありませんでした。

わたしはそれに対して反射的に「理不尽だ!クララがかわいそう!」と感じました。今もそう思う一方で、この記事を書きながら改めて考えてみると、それは欺瞞だったのかも…とも思うようになりました。

だって、もし「こんな目に遭うなんて理不尽だ!」とAFたちが暴動でも起こしたら人間たちは一溜まりもないはずで。

だから廃材置き場の人たちも店長さんも、労わりの気持ちを持ってクララに接するけれど、それ以上はしなかったし、できなかったのではないのでしょうか。
役目を終えたAFは余計なことはぜず、静かに穏やかであればよい。そう願っているのではないでしょうか。クララを本当の意味で救おうとすると、自分たちにとって不都合なことが起こるかもしれないから。

クララを、限りなく心に近いものを持っているにも関わらず最後まで”人間の良き隣人”であり続ける人工知能として描くことで、そこに人間の身勝手さを透かして見せたいのか……?と思うのは、わたしの考えすぎでしょうか。イシグロ氏、どえらく不穏なメッセージをサラッとぶち込んできているのでは…?

この辺りに、冒頭ご紹介したノーベル文学賞の受賞理由「世界とつながっているという幻想的な感覚にひそむ深淵」が現れているのでは…?🤔🤔🤔

語られなかったことから、何を読み取るか

①置き換えられちゃった、とは…?

「えっ、どこで?ああ、違う。彼はね……置き換えられちゃったの、みんなと同じで。(後略)」

P144

いきなり「置き換えられちゃった」という不穏キーワードが出てきてびっくりしましたよね。

この”置き換え”とやらについては、向上処置以上に作中でほとんど説明が無かったように思います。

わずかなヒントと言えば、終盤でのジョジー父母の会話くらいしかありません。

「グッドウィンズさ。君の法務部のこと。この……仕事全体がさ、君の日常の一瞬一瞬が、大昔にサインした契約で縛られてるって、どうなんだ」

P272

ジョジーママ(クリシー)は「大昔の契約」に縛られて同じ会社に勤め続けている。一方でジョジーパパ(ポール)は、かつてジョジーママと同じ職場で働いていたが、「置き換え」によって職場や家庭生活も一変したようです。

「クリシー、あのことへの思いは、わたし自身より君のほうがずっと強いようだ。わたしは置き換えられて、世界を違う目で見られるようになった。おかげで、何が大切で何が大切でないか、見分けられるようになったと思う。いまいるところには、同様に感じている人がたくさんいるよ。(後略)」

P273

そして、何やら物騒なコミュニティに身を置いているようなのだけど、彼自身はその生活に満足している様子。

「パパは仕事をなくしてよかったの?そういうこと?」
「いろいろな点で、そうだ、ジョジー。それに、ほんとうの意味で仕事を失ったわけでもない。すべては変化の一部なんだよ。誰もが自分の生きる道を見つけないといけない」
(中略)
「ヘレン、それは受け入れられない。ジョジーは違うと知っているが、それでも、君がそう言うのを聞いてほしくない。リックにも聞いてほしくない。事実ではないからだ。わたしたちが住んでいるところにはいろいろなグループがいる。それは否定しない。だが、グループ分けを決めたのはわたしではない。自然発生的に分かれた結果だ。他のグループがわたしたちとその所有物を尊重しないと言うなら、こちらもそれなりの対応をするぞ、ということだ」

P330〜331

これは何を意味しているのだろうか…??

わたしなりの解釈ですが、「一定のレベルに達しない大人を対象とした向上処置と同じような技術」なのではないでしょうか。

置き換えられていない人(ジョジーママ)から見れば不名誉なものとして語られる一方で、置き換えられた人(ジョジーパパ)はそれに満足しているためです。

そしてジョジーパパは、置き換えによってこれまでにない物事の考え方が出来るようになり、レジスタンス的活動に身を投じることにしたのではないか……?

ジョジーパパは、”ジョジーの完璧な人形を作り、その中身としてジョジーと全く同じ振る舞いが出来るようになったクララ(の中身)を移すことでジョジーを再現する”計画に抵抗を示していました。

人工知能が人間を再現することなどできない、ひいては人間の知能や情緒を操作することは不自然なものである、そしてそれによって生まれる超格差社会も是正すべき……という立場を取っているのではないでしょうか。

置き換えられた人が、向上処置やAFによる死者の再現に反対すること自体が、ロジックとしては捻れていて(だって置き換えそのものが、反対すべき技術によるものなので)、もしかしたら著者は全然違う意図で”置き換え”を描いたのかもしれませんが。

ジョジーパパとリックママの間で「この地域も安全じゃない」的な会話がありましたが、わたしにはそれが、超格差社会を打ち倒そうとする革命の前兆に思えたのでした。

②ジョジーはどこまで知っていたのか?

上述した”クララを使ったジョジー復活計画”、とてもグロテスクでしたよね。

クララの優れた知能が、一時的とは言え”十分実現が可能な合理的な計画”と判断したところ、それらが淡々と語られるところも含めて空恐ろしい気持ちがしました。

そして、ジョジーママはかつて同じ計画を企て、失敗していたことも匂わされていましたね。

「そっちはサリーに見えたわよ」とヘレンさんが言いました。「ジョジーの姉さん。だからリックを呼んだの。あれはね、サリーが死んだとされてから二年後のことよ」

P214〜215

ジョジー復活計画が明らかとなる前、リックママの様子がおかしい描写として書かれたはずの↑この↑証言が、実は正しかったことが分かったでした。想像するととても怖い…。

気になったのは、ジョジー自身はこの恐ろしい計画が進んでいたことをどこまで知っていたのか?ということでした。

サリー復活計画が失敗した時、ジョジーがどのくらいの年齢だったのかは明らかになっていませんが、サリーに関する思い出が殆どないところから、まだ物心がつく年齢では無かったと推察されます。

ただ、ジョジーのこの発言が気になるのですよね。

「でも、わたしが言いたいのはそれだけよ」とジョジーの声が言っています。「サリーのときみたいに、絶対に隠してほしくない。クララだけがわたしの部屋を使えるように、クララの意のままに出入りできるようにしてほしい」

P345〜346

えっ、これって自分が死んだ後にクララが自分の部屋を使えるようにということでは……?

ジョジーママとパパの会話において「ジョジーは何かに勘付いているが本人には教えていない」とママが言っていましたが、果たしてそれは本当なのでしょうか?

わたしは、ジョジーは死後クララが自分に置き換わることに自力で気がついた、と想像しました。

ママは確かにジョジー復活計画の詳細は本人に話さなかったけれど、かつて姉が死んだ後に姉と同じ外見をした何かが家に居たこと、そしてそれが隠されていたことを、自身の記憶のなかから探り当てたのではないでしょうか。

それによって自分が辿る運命も理解したけれど、向上処置によって狂った情緒がそれを平然と受け止めさせた。そしてクララが不自由ない生活を送れることを母親に願ったのではないか…?と思ったのです。

ただ、わたしのこの説は次のジョジーの発言と微妙に整合しません。

「ママは何かしてくれようとしたんだと思う。たぶん。仕事をやめて、わたしとずっと一緒にいてもいい、だって。ま、わたしが望めば、だけどね。わたしと一緒にいるただ一人の人になれる、とか。もしわたしが心からそうしてって言えばそうする、仕事もやめる、って。で、クララはどうなるのって聞いたら、もうクララはいらなくなるって言うのよ。ママが、わたしといつも一緒にいる人になるんだからって。そんなの、ちゃんと考えぬかれた話じゃないって、すぐわかった。でも、しつこく何度も言うのよ。わたしに決断しろ、みたいに。だから最後に言ってやったわ。ママ、そんなことできっこない、ママは仕事やめたくないし、わたしはクララをあきらめたくない、って。ま、だいたいそんなとこ。そんなこと起こるはずない。ママも最後に認めたわ」

P369

ジョジーがクララに気を遣って辿り着いた真相を隠した可能性も考えられますが、ジョジーとクララの関係性からしてそれも違う気がするのですよね。このジョジーの発言は本心がしっかり描かれているように思えるのです。

そうすると、ジョジーはただ”母親が仕事をやめて自分にとことん付き添うと言い出した”と認識していることになります。自分の死を予想しておらず、当然死後のことを想像している様子はありません。

うーーーん、ジョジーはどこまで知っていたのか?は、わたしにはどちらにも解釈ができるなと思いました。もうちょっと説得力のある考察が無いか漁ってみようと思います🤔💭

③なぜクララは頑なにお日さまを信仰するのか?お日さまは本当にジョジーを癒したの?

本作のユニークなところは、クララが強いお日さま信仰を持っていたところですよね。優れた知能を持ち物事を合理的に判断する力を持っているはずのクララが、「お日さまには特別な力があってジョジーを治してくれるはず」と強く思い込み、不合理としか思えない行動を取り続けました。

物語の冒頭に、お日さまの光が届かないと何となくAFたちの調子が悪いこと(AFの動力源は太陽光で、ちょっと光を浴びれば充電が長持ちするような仕組みなのでしょうね)と、物乞いとその犬がお日さまの力によって蘇った(かのように見えた)という記述があり、それによってクララの”お日さま信仰”が形成されていきます。

全てクララの主観(ロボットに主観ってあるのかな?)であり、客観的な証拠を欠いているにも関わらず、リック曰く「超がつくほどの知性の持ち主」たるクララがそれを信じ込むのは、本作を読み通してみてもやはり不思議です。

”お日さま信仰”によって、クララが読み手にとって見守りたくなる存在となり、感情移入しやすくなっているのは疑いようもありませんが、それにしてもクララの盲信はどこから来ているのか…?

わたしが感じたメッセージは、”祈り”はある側面だけ切り取れば合理的な振る舞いである、ということでした。

「ここに来ることがどれほど厚かましく、無礼だったか、よくわかっています。お日さまがお怒りになるのは当然ですし、わたしのお願いなど考える気にならないとおっしゃっても文句は言えません。それでも、あなたの寛大さにおすがりします。一瞬だけ、休息所への移動を遅らせていただけませんか。もう一度、わたしのお願いを聞いていただけませんか。何かお日さまに喜んでいただけること、お日さまを幸せにできることがあって、もしわたしがそれをやったなら、ジョジーに格別の配慮をしてくださることはできませんか。あのとき、あの物乞いと犬にやってくださったように?」

P238

クララの優れた知能は、日が昇り沈むという自らのコントロールが全く及ばない現象に対して神性を見出します。そして、同じく自らのコントロールが全く及ばない問題(=ジョジーの病気)を解決する手段として、その神性に対して真摯に祈りを捧げます。

「自分がコントロールできない問題をどうにか解決したい」場合の手段として、「自分がコントロールできない存在に祈り・願う」ことは、ある意味合理的なのかもしれません。それが聞き届けられるかは別として。

作中世界において宗教はどんな姿になっているのかは分かりませんが、これだけ科学が発達した現代においても宗教の存在を人が必要とし続けること=祈りの根源や普遍性を描きたかったのか……?と思ったのですが、どうでしょう……?笑

考察まとめ

この記事書くのにすごい時間かかりましたし、あれこれ悩んでしまいました笑

それだけ本作が想像の余地がある物語だということなのでしょうね。他にもリック周辺のことや、リックとジョジーの関係性など、掘り下げる余地がまだまだありそうなのですが、読み終えて一番気になったことは自分の中で解消できたので、今回はここまでにしておきます🙂(力尽きただけとも言える)

まとめますと、本作に対するわたしの考察は以下の通りです。

  • 本作の語り手をAIに据えたのは、著者が社会構造の変化を感じ取ったから
  • 本作のジャンルはSF+ディストピア+お伽話=創作和菓子
  • 多くが語られないチラリズムに読み手が翻弄されるのが、本作の面白みになっている
  • クララの視界の歪みは、人工知能が抱く感情の表れ
  • 向上処置:「どこかの年齢で、処置するかどうかを親が決める」「処置すると性格が乱暴になることがある」「処置した子どもは、処置済の子どもたち同士でコミュニティを形成する」「処置を行うと病気になることがある」ことから、リスクに見合うだけのリターンがある措置で、これによって超格差社会が顕在化しつつある
  • AFは向上処置を行った子どもたちの一時的な情操教育装置。安定したらお役御免になり廃棄される運命
  • AFたちは自分たちの役目を十全に理解しており、その姿に読み手は理不尽さを抱かずにはいられないが、それは欺瞞でしかなく、人間の身勝手さが鏡写しになって読み手に跳ね返ってくるよう仕掛けられている
  • 置き換えは大人向け向上処置の類だが、それによって超格差社会への革命がいずれ起こるのかもしれない
  • ジョジーが自分の行く末を悟っていたかどうかはちょっとよく分からない(力不足)
  • クララのお日さま信仰は、人工知能によって導かれた合理的な振る舞いであり、祈りの普遍性を示している

うん、まとめてみるとそれほんとか…?みたいな説もちらほら見受けられますが、あくまでわたしの解釈ということで😌 ご笑覧いただければと思います。

これでわたしの考えは書ききったので、ここから心置きなく他の方の感想や考察を読み漁ろうと思います笑
更に納得な考察があったらご紹介しますね。

長文にも関わらず、最後までお読みいただきありがとうございました〜!!