芥川賞「むらさきのスカートの女」の誰かに言いふらしたくなる薄気味悪さって中々無いよね
2019年の第161回芥川賞受賞作の「むらさきのスカートの女」を読みました。
本作、先日同居人と一緒に「ブックホテル神保町」さんに遊びに行った時に置いてあったのが読み始めるきっかけでした。
しかも先に同居人が読み終え、「なんかすごかった…ゾワゾワした…読んだらいいと思う」と言ったのです。
普段小説をほとんど読まない人なのでこの発言は珍しく、興味をそそられました。芥川賞なのでちょっと文学寄りというか、単純明快なストーリーではないだろうな、読書習慣の無い人が面白く読めるのかな?と思っていただけに。
(ちなみに同居人はその後はずっと漫画を読んでた)
ということで、ホテルに滞在の間は別のものを読んでいたので本作まで手が回らなかったため、後日図書館で借りてきました。
結果、この薄気味悪さとシュールさはなかなかお目にかかれないぞ!という仕上がりで面白かったです。すぐ読み切れるのも良い(たぶんわたしが読み終えるまで、2時間かかっていないと思います)。
まさに同居人が言う通り、奇妙なのに読ませる展開で、読んだ人とこの感覚を共有したいがために勧めたくなる独特さがありました。
文量が多くないので、ここまで読んで気になった方は損しないと思うのでお試しくださいと言い放っておけば良いのではないかと思えてきます。(分厚いと読むの躊躇う方も多いと思うので、せっせと推しポイントを紹介したくなる)
ちょっとした感想とあらすじの紹介をTwitterに投稿しているのですが、ネタバレの無い範囲で感想を言い表そうとするとこんな感じになります。
#むらさきのスカートの女 読みました。薄気味悪くて草。
— はつね (@hatsune_ss) March 12, 2022
商店街の店員や子どもたち、その街に住む人がなんとなく存在を認識している、いわゆる「街のちょっと変わった人」であるむらさきのスカートの女と、その観察者のお話。
読んだ人と「……ね?」と頷き合いたいタイプの本でした。 pic.twitter.com/4oAzyRgiji
ポイントは「読んだ人と頷き合いたい」というところです。このブログではせっかくなので、読んだ人同士で共有したくなる感覚ってこれのことですよね!?という、解説めいたものを書き残しておこうと思います。
※以下、物語の核心に触れてしまっているので未読の方はくれぐれもご注意ください!読んでから読んで!
ネタバレ感想(副題:解説を試みたけどうまく言っているだろうか)
本作、一番やばいのお前だったんか〜い!と言う可笑しさ・シュールさが読みどころというか、読み終わった人同士でキャッキャ言いたいところではないでしょうか。
実際わたしも読み終えた後、同居人と「権藤さんか〜い!ってなったよね」「なったなった」「途中で権藤さん=語り手って匂わせるところあったよね」「あったあった、気づいた」「バザーのところとか」「そうそう」「権藤さんとむらさきスカートが接触するところエグかったよね」「エグかった、めっちゃ早口で言ってそうだった」などと、ひとしきり盛り上がりました。
いやぁ、わたしは読書会に参加したりもしないので(怖いので)、リアルの場で読んだ本の感想を言い合うことが中々無いのですが、同じ感覚を共有できるって楽しいですね。そういう意味でもひときわ楽しい読書体験でした。
周りに本作を読んだ人がいないという方は、どうぞこのブログで少しでもそんな感覚を味わっていただけたらと思います。ので、ここから物語の骨格を追っていきたいと思います。
本作は次のように始まります。
うちの近所に「むらさきのスカートの女」と呼ばれている人がいる。いつもむらさき色のスカートを穿いているのでそう呼ばれているのだ。
P3より
むらさきのスカートの女は、若い女の子のようにも思えるが、多分そんなに若くはない。頬にはシミがあり、髪の毛はパサパサで、清潔感もあまり無い。公園には専用シートが(人々の共通認識として)用意されていて、遭遇する人は知らんふりをするか道を空けるか。禍福どちらのジンクスもあって、子どもたちは度胸試しのために、公園に座ったむらさきのスカートの女に対して声をかけたりタッチしたりする。
きっと多くの読み手は頭の中で知らず知らず、「自分の街にいる“むらさきのスカートの女的“人物」を思い浮かべるのでは無いでしょうか。
誰かと示し合わせた訳では無いけれど、きっと街のみんなから存在を認識されているのだろうなと思える人物というか。
大きな声では言いにくいですが、路上生活者の方、ちょっと様子のおかしい人(例えばめっちゃ大声で独り言を言いながら歩き回るおっちゃんとか)、そういう類の。
暗黙の了解ができていて、その人のことは脅かしたりしないようにしようと、みんながちょっとずつ気を遣っている人というか。
いま、わたしの住んでいる街には“むらさきのスカートの女的“人物は居ないのですが、この感覚はどこに住んでいる方でもうっすら理解できるように思うのです。
そのちょっとばかり後ろめたい共通認識を、本作では物語の装置としてうまく使っている。そこがユニークだと思うのです。
本作の語り手は、自らを「むらさきのスカートの女」と対比させるように「黄色いカーディガンの女」と自称しますが、常に語り手目線で物語が進むため、読み手は語り手の人となりを知ることは出来ません。ずっと目線カメラで映画を見ている感覚ですね。
黄色いカーディガンの女はむらさきのスカートの女を異様なまでに観察します。友だちになりたいと思っているのです。その機会を得るために、それとなくむらさきのスカートの女が自分の職場に就職するように仕向ける様子は涙ぐましいほどです。読み手は「何故そこまでして」とか「ストーカーまがいの観察力」という若干の違和感を持ちますが、その疑問に対する説明はほぼ為されないので、読み手は疑問の解消は諦め、語り手(黄色いカーディガンの女)に付き合ってやろうと気持ちを切り替え、続きを読み進めることになると思います。
この一方通行感や不親切な進行も、読み終わってみると、それもまた物語の装置だったのかもと思えます。黄色いカーディガンの女がヤベーやつと露見したのは終盤になってからですが、思えば最初から様子がおかしいのですよね。読み手は心のどこかでそこに引っかかりつつも、気づかず通り過ぎてしまう。だって説明が一切ないから諦めるしかない。
黄色いカーディガンの女の職場に現れたむらさきのスカートの女。
※「職場に現れた」というのも読み手が汲み取らないといけなくて、作中では“むらさきのスカートの女が面接にやってきた“ことと、“職場でのむらさきのスカートの女の様子(微に入り細を穿ち語られる)“しか書いていないので、読み手が「自分の職場に来るように仕向けていたのね」と理解しないといけない。とっても不親切な作りです。
そこから、むらさきのスカートの女が「日野まゆ子」であることが分かり、彼女は殻を破るように、蕾が開くように、どんどん良い方向に変化していきます。
街のちょっと変わった人だったのが何処へやら、声が大きくなり、身なりに気を使い、職場に溶け込み、公園の子どもたちとも仲良くなります。とてもいいことですね。黄色いカーディガンの女はと言えば、せっかく同じ職場になったのに友だちになるきっかけが得られず、むらさきのスカートの女を見守り続けるばかり。
しかし、月が満ちてかけるように、咲いた花が腐り落ちるように、右肩上がりだったむらさきのスカートの女の勢いは徐々に下降曲線を描いていきます。
溶け込んだはずの職場から再び浮いてしまうむらさきのスカートの女。詳細は省きますが、ついには不倫相手の上司と揉み合い、上司はむらさきのスカートの女が住むボロアパートの外廊下から落下してしまいます。
ここからが出色ですね。
上司の転落に動揺するむらさきのスカートの女のもとに、突然見ているだけだった黄色いカーディガンの女が姿を現すのです。ここからの流れが急展開というか超展開、起承転結の転の部分、本作の読みどころですね。堰を切ったようにまくし立てる黄色いカーディガンの女の不気味さったら…!ゾワゾワしますね。
この異常な状況が、黄色いカーディガンの女にとっては“ようやく訪れた友だちになれるきっかけ“でしか無いのです。視野狭窄すぎんか。
ようやく友だちになれるという喜びも束の間、むらさきのスカートの女は黄色いカーディガンの女の前から姿を消してしまいます。そして最後に明かされる黄色いカーディガンの女の正体。(さっき書いちゃいましたが)
わたしは買い物袋を脇に置き、なかからクリームパンの入った袋を取り出した。パンはほんのりと温かい。初めに半分に割って、片割れを膝の上に置き、もう片割れを口に運ぼうとした、まさにその時、ポン!と肩を叩かれた。
P158より
絶妙なタイミングでわたしの肩を叩いた子供が、キャッキャッと笑いながら逃げて行った。
この終わり方…!このあっけなさ、語り手が語られる対象へにグルッと転換した回転の感覚!
Amazonレビューの中で「世にも奇妙な物語みたいだった」という感想を拝見しましたが、まさにそれ。(散々書いておいて他人の褌)
芥川賞受賞も納得!…かは正直分かりませんでしたが笑、印象に残る作品でしたよね。
最後までお読みいただき、ありがとうございました〜!