二つの時代を生きる二人の青年を描く「U」が壮絶だった


 
不思議で哀しくて美しい作品。
 
史実を下敷きとした生々しいほど確かな手触りなのに、
内容はファンタジックでもあるというギャップが、不思議さの要因かなあ。
 
17世紀のオスマン帝国、そして第一次世界大戦下のドイツという二つの時代を、
老いるスピードがとてもゆっくりな元少年兵二人が生きる、というお話なんだよ。
どうしたらそんな発想で本を書こうと思えるのかしら(感嘆)
 
海に沈んだ夥しい数の死者たちが見せた、長い、長い、
途方もなく長い夢を一緒に見ていたのかなと思う、哀愁が残る読後感だった。

 

ティルピッツの頭髪は頂点の辺りまで生えぎわが後退し、口髭と顎髭は灰色になっているが、ヨハン・フリードホフの容貌はほとんど変化していなかった。
久闊を叙する間も惜しく、「君は、ハンス・シャイデマンを知っているな」ティルピッツは問いかけた。
はい。明瞭にフリードホフはうなずいた。「私の半身です」(P22〜23)

 

は、ははは半身ですって…?
すごいパワーワード。
 

そんな名言と共に幕を開けた物語は、
17世紀のオスマン帝国と、第一次世界大戦中に使用された潜水艦・Uポートの間を移ろう。

国は栄えた後に衰え、また新しい国が栄えゆく。
人は生き、子をなし、そして無造作に死んでいく。
その大河のような流れの中で、時を止めてしまった二人の青年の物語です。
 

分厚いものの、文字は結構大きいので、文量は見た目ほどには多くないのかな🤔

世界史受験をした身としては、オスマン帝国やイェニチェリという
キーワードが何とも懐かしくもあり、
「私の半身」発言でテンションが一気に上がったこともあり、
グイグイ読み進めました。
 

二人の青年の長い人生を追いかけることで、その<時>を一緒に体感したような、
塩に生命を吸い取られたような(読めば分かる比喩)感覚。
率直に書くと、「な、なんかつかれた…」という感じ。笑
なかなか無い読書体験でした。

 
 

以下、ネタバレ感想です!
未読の人は気をつけて!
 
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まず、世界史でお馴染みだった「オスマン帝国」と「イェニチェリ」について。
まるで本当にその時代を生きた少年たちの手記を読んでいるかのようで、
その圧倒的に繊細な筆致によって、知るはずのない景色が眼前に浮かんだ心地がした。
 

宗教や言語を奪われた苦悩と、煌びやかに見える宮殿の中に蠢く権力争い、
新たな皇帝が就けば、帝位争いに負けた皇子たちは生涯幽閉となる。
不慮の死(もしくは作られた死)で皇帝が不在となれば、
幽閉されていた皇子が新たな皇帝に担ぎ出される。狂ってしまう皇帝もいる。
ー最も権力を持つはずのスルタンは、別の誰かによって仕立て上げられているー
その「いかにもそんなことありそうだな~ありそう(二回言った)」という手触りがとてもよかった。
熱風や、兵士たちのむさ苦しさまで、吹き付けてくるようだったなあ。
 

きっとどの国でも、どの歴史でも、同じようなことは起こっているんだろうけど、
他国から少年を攫い自国の戦士としてしまう「イェニチェリ」という特殊な制度もあり、
オスマン帝国が巨体を抱えて腐っていく様は、落日を強く思わせた。
 

何と言っても注目すべきは、イェニチェリとして強制徴兵を受けた三人の少年たち。
貴族の生まれだというヤーノシュ、印刷業を志していた商家のシュテファン、
農民生まれの貧しく幼気なミハイ。
 
この三人の関係性がね!またね!
皆川さんの得意とする、繊細な心理描写でつまびらかにされていくところに
何ともいえないむずがゆさを与えてくれます。
 

岩塩鉱を彷徨い時を止めてしまったヤーノシュとシュテファンは
二本の前脚と四本の後脚を持つ双頭の獣(この表現がエモすぎる)となって、
生命を与えらえ、常人と時の流れの違う体を持つこととなった。
 
けれどその後、二人は別々の道を歩むことになる。
図書に埋もれ外界との関わりを絶ったヤーノシュ(ヨハン・フリードホフ)と、
自身が愛したミハイとレミリアの子孫と生きていくことを選んだシュテファン(ハンス・シャイデマン)。
二人は手記を作ることにするが、徐々にシュテファンは書くことをやめてしまい、
後半はほとんどヤーノシュの独白になってしまう。
 
二人の道は、いつから分かれてしまったんだろう?
それは一体いつからだったんだろう?
違う生き方を選択した時?
ヤーノシュが躊躇いなく人を殺した時?
それとも、シュテファンとミハイがレミリアを襲った時?
あるいは、ヤーノシュが宦官となった時?
 

シュテファンは、ミハイがレミリアの元に通い、
レミリアが真実に到達したところを境にして手記の執筆をやめてしまう。
 

いずれにせよ、二人が疎遠になった後に、シュテファン(ハンス)は無謀な任務に着き、
それをヤーノシュ(ヨハン)とミヒャエル(ミハイの子孫)が迎えに行く。
苦難を乗り越え、ついにシュテファンの救助に成功するが、
ヤーノシュの物思いは晴れないし、シュテファンとの溝が埋まることもない。
それがなんとも切ないんだよ…
 
 

君は下段ベッドに腰を下ろし、私は上段に横になっている。君の気配が伝わるほど距離は近い。しかし、互いに存在しない。私が知覚するのは木彫りか石像のような君の外殻だけであり、君は私の外殻にすら関心がない。
記憶をたどりかえせば、君と私が互いの体温を感じるほど間近にいた時間は、わずかなのだと気づく。生地からオスマン帝国までの旅、そうして、あのuntergrundだ。だが、他の時間をすべてあわせたよりも、あの二つの時間は長かった。他の時間は、希薄だ。消えてしまった時間は無と同じだ。ああ、もう一つ。ラメスの指導の下に馬を走らせた時間。君の技術はすぐに私に追いつき、追い越した。私は聖人じゃない。羨望、讃嘆と共に、ラメスの寵を奪われると、妬心をも抱いたさ。君がミハイをかわいがるのは、どうでもよかった。だが、ラメスは。これ以上言葉を重ねることはすまい。誰にも聴き取れない、声には出さない文字にも記さない言葉であっても。あまりに醜い。
さらにもう一つ。ウィーン攻防の戦野を二頭の馬を駆り疾駆した。すべてから解き放たれた一瞬の自由。決して永続はしない。あの一瞬に、私の<時>は固着し、ほぼ動かない。世紀を過ぎようと、私は老いることができない。肉体だけではない。untergrundに落下した二十一歳で、私の内面の変化ー成長と呼ぶのか?ーは停止した。君は進む。私はとどまる。何度、同じ言葉を悔恨のように繰り返したことか。だが、君と共に進んでいたら、私は途中で脱落しただろう。私はもはや君を理解できない。君は私に関心はない。「私の半身」自嘲する。吊床から身を乗りだし、ミヒャエルが君に何か話しかけている。言葉は私の耳を素通りする。ミヒャエルの楽しそうな顔。それに応える君の表情は、私の位置からは見えないのだ。しかし、一枚の絵のように情景が目に映る。(P350〜351)

 

シュテファンはレミリアの影を追うようにミヒャエルを見守り愛すが、
ミヒャエルは血を繋ぎながらあっさりと死んで行く。
ヤーノシュは自分に背を向けミヒャエルを見つめ続けるシュテファンの背中を、悲しげにいとおしむ。
三人の関係性は、こんな風じゃないだろうか。なんて悲しいんだろう…ヤーノシュ…
 
 

だけれど、帰港直前で味方の船と衝突し、
Uボートが沈む中で、二人は他人を助け、船の中に残る決断をする。

再び二人きりになり、かといって言葉を多く交わすこともなく、
海という死と生に満ちた水に抱かれ、二人は静かに眠りについた。
積年の思いを打ち明けることもなく。腹の内を吐露して溝を埋めることなく。

ヤーノシュはもっとシュテファンと話したかったんじゃないのかと、
思ってしまうのはわたしが気軽な傍観者だからなんだろう。
二人にとっては、あまりに時間がたちすぎていて、もう話すことは何も無かったということなのかな。
 

それにしても、どうして二人は他人を助けることにしたんだろう。
愛しいミヒャエルと一緒に生還することを、選びたくなかったのかな。
二人は長い時間を生きることに疲れてしまったのかな。
ヤーノシュは明らかに虚無を抱えていたし、
シュテファンが無謀な任務についたのも同じ理由なのではと思った。
肉体が長い時に耐えられたとしても、精神はそうではない、ということなのかなあ。

そんな二人が、岩塩鉱の闇に溶け込んだように、
今再び沈没した潜水艦という塩の闇に抱かれて眠る様は、
なんて暗くて美しいイメージを呼び起こさせるんだろう。

二人は、二本の前脚と四本の後脚を持つ双頭の獣に、再び戻っていったのだと思った。
はわわ~~文学の匂いがすごい~~~ってなるよね(頭の悪い感想)。
 

エピローグ、戦争によって家族や家、何もかもを奪われた少女が海から男を救うが、
翌朝には男は消え、少女はまた一人になる。
これは何を意味しているんだろう?
単純に考えれば、シュテファンかヤーノシュが生きていたということを
暗示しているんだろうけど、そういうことなの?
(ここは、感想ブログをいくつか拝見してもこれといった納得感は得られていない)
 

私の半身と言いながら、その実、長い時の中で二人の間には隔たりが生まれ、
手記は編まれたものの完結することなく、結局はその行方も分からない。
二人が愛したミハイの末裔は、Uボートの中で命を散らす。
それもすべて、流れゆく時の中では、一滴の雫でしかない…。
 

掴むべき岩も、自分を結び付けてくれる綱もなく、
広い広い海に投げ出されてしまったような、あてどなさの残る読後感だった。

けれどそれは、そのあてどなさは、見て見ぬふりをしているだけで、
今生きているわたしたち一人一人にとって言えることなんだよね。

どんな偉業を成し遂げても、あるいは誰にも顧みられない人生だったとしても、
すべては一滴の雫にも満たないものだということ。
そんな、分かりきった事実を改めて目の前に示された感覚がした。
 

なんとなく、人生に漠とした不安を抱えていたところだったので、
今この本を読んで、より一層虚無感が増した感じがした。笑

皆川さんは、この作品で何を描きたかったのだろう。

盛者必衰?悠久の時の流れ?斜陽と再生?

いずれにせよ、17世紀のオスマンと20世紀のUボート、
二つの地下を繋いだ想像力、構成力と筆力を体感できる作品だったことには違いない。

ハッピーエンドでもなければバットエンドでもない、
なんとも表現が難しい結末に、それでもこの終わり方がよかったのだと思った。

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